昭和44年06月26日 夜の御理解



 私達が信心によって本当に助かると言うこと、身も心も信心によって助かると言う事が、そのまま神様の助かりに通じる、そしてその助かりが、末の世までもと仰る、子孫に残るとも仰る、いわゆる子供にも子孫にも残ると言う、そういう助かり方を私共が実際にしなければいけないね、ただ信心しよってこう言うおかげを頂いた、あぁいうご利益を受けた言うだけではなくて。そこまでの助かりを一つお互い目指しての助かりにならなきゃいけん、私が助かると言う事は、そのまま神様が助かって下さる。
 氏子の助かりが神の助かりと仰る、そういう意味での助かりね、同時にその自分の助かったという事が、子供にも子孫にも残しておけれると、言った様な助かり方、そう言ったところにお道の信心の助かりという、そのいわゆる真意というかね、本当の意味がそこにあるとこう思うんです。先程あのう定男さんがお届けをされるのに、こちらへ出て来がけに、もう本当にもう一尺のところまで自動車がこうやって、突っ掛けて来たち。やっぱり居眠り運転かなんかもう咄嗟に先生わたしゃもうものがでらじゃったち。
 こういっておられる。ものでらなかったけれども心の中で金光様ちいうちから、そのういうたっち。もう先生私がもう私死んだかと思うたちからいうんですよ、もう私が死んどりゃもうそのう、親も困る子供も困ると私しゃそれを聞かせ貰ってね。はぁ本当にそれが定男さんであるゆえに、尚更それをひとしお感じたんですよ。定男さんがねそういう一つの自覚という、言う様な事まで恐らく知ってはおるまいけれども、そういう自覚にいつも立っておる、自分が一人で働いておると言う事がね。
 親も助かる事であり、同時に子供も助かる事だと、その自覚があるから、とても不精回す訳にはいかん、仕事の方を疎かにする訳には行かん、ということになって来る訳なんです。本当にあのうそういう私はそのう自覚に立っ。例えばどういう頭よかっても力量があってもですね、そういう考えを持たんでただ働いておると言う所にですね、私は本当の立ち行きは生まれて来ないと思うんです。親も立ち子供も立ち行くと言う様な思いになって来ないと思うんですね。
 自分が働いて自分が使う、ただそういう自分中心なものであるから、本当の働きが出来ないじゃないかと思います。それを例えばなら今の御理解に併せて見てもそうです。私くしが本当に私の存在、私の存在と言うものがです、親神様の助かりに繋がるのであり。それはやはりまた子孫とか子供とかと言う風に申しましたけれども、自分の周囲のまだ信心を知らん人達の上にです、自分の助かりというものが潤うていくんだと、私が一人本当の信心を頂いていくことが、神も喜び子供も喜ぶのだと言う様な。
 そういう自覚にたっての信心がね、お互い欠けておるじゃなかろうか。私はもう定男さんをおしてそういうその、口にはいわんけれども、自分がそういう理屈っぽい事は無かろうけれどもね、けれども、心の底に何とはなしにあるものは。自分が働いておると言う事が子供が助かっていきよる、親が助かっていきよる。もし自分があん時にあっと言う間に死んでおったら、子供が助からんね。
 子供も困る親も困る所でしたとこういうんですよ、もう困る所じゃない本当に大変な事になる事だと思うんですね、そういうお互いのね自覚が必要なんだね、これは生活の上においてもそうなんだけれどもね、同時に私は信心の上においてそういうお道の信心を頂いておるだ、また頂かなければならんという自覚に立って、神も喜び氏子も喜び金光大神も喜びと、仰るような信心を身に付けていかなければいけんと思うですね。
   どうぞ。